私財を投じ、私設のろうあ学校を開校(横須賀)
「ガラスの城」と呼ばれた馬淵ろうあ学校の全景(右端が寄宿舎)
横須賀ろうあ学校建設(昭和5年)
昭和4年、創業者の馬淵曜は、満足な教育も受けられないろうあ児のために横須賀の自宅において私設の「馬淵ろうあ学校」を開校しました。
そして、翌昭和5年には「薄幸な子供達にせめて校舎だけでも素晴らしいものにしたい」との思いから、横須賀市小矢部の丘陵地に人々が「ガラスの城」と呼んだほど全国のろうあ学校には類を見ないような贅沢な校舎・寄宿舎を建設しました。
日本人初、ヘレンケラーと出会う
日本人初、ヘレン・ケラーに会う
昭和6年、アメリカのフーバー大統領が世界37か国から盲聾教育に携わる300人余を招集し、世界盲人社会事業会議をニューヨークで開催しました。馬淵曜は、初めて招集された8人の日本人の一員として会議に参加し、ヘレン・ケラー女史に会う機会に恵まれました。その後、昭和12年に女史が来日して横須賀でも講演会が開かれ、聴衆者が1500人を超える盛況であったと言われています。
「すべての盲聾者の福祉のために、安易な妥協など許さない戦いに参加する責任が、私たちにかかっています。われらの友よ、夜明けはそこまで来ているのです。参加者一同がここに決意して、わたしたちが作った大道をまっしぐらに前進しようではありませんか。団結しあい、覚悟を新たにして恐れることなく!」
このヘレン・ケラー女史の訴えに、馬淵曜は新たな覚悟を抱いたに違いありません。
パリ国際ろうあ教育会議にて(昭和6年)
横須賀で講演するヘレン・ケラー(昭和12年)
馬淵ろうあ学校を横須賀市に移管
馬淵ろうあ学校を横須賀市に移管
昭和28年に、馬淵ろうあ学校は横須賀市に全面移管され、現在も「横須賀市立ろう学校」として馬淵ろうあ学校時代からの教えである「強く」「正しく」「朗らかに」の精神を引き継いだ教育が継続されています。
現在の「横須賀市立ろう学校」校舎
馬淵曜と和子夫人の胸像
自ら創り育ててきた「横須賀市立ろう学校」敷地内で創業者 馬淵曜夫婦の像が学校の末永い発展を見守っています。